「夢を力に」本田宗一郎 -経営編-

hiking / Pixabay

こんにちは、ポメです。

前回の投稿はかなり反響を頂きました。

ありがとうございます。

前回は本田宗一郎、その生き方に着目してご紹介致しました。

本田技研工業を一から立ち上げた男、

本田宗一郎

今回は、その経営スタイルをかいつまんでお伝えします。

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「夢を力に」本田宗一郎 -経営編-

米国に進出する心得

1948年

本田が42歳の時

本田技研工業が設立

1959年

輸出伸長のため、米国に現地法人を設立しました。

アメリカン・ホンダモーター

その設立にあたり、貫いた信念がありました。

それは、

日本人を極力雇わないこと

なぜか。

本田はこのように述べています。

米国に行って、米国人並みの給料が払えないようじゃ商売はできない。米国に進出する以上、その土地の人を使って、かの地から喜んでもらうべきだ。だから、まず土地を買って、建物を作り、どっしり腰を下ろして商売に取りかかろう。

日本人である以上、気心知れた日本人の方が話しやすく、当時、日本人の人件費が非常に安い時代でした。

しかし、本田が貫いた信念は、あくまで現地の企業として、現地に溶け込むことでした。

その土地の人を富ます

1961年、西ドイツのハンブルグにヨーロッパ・ホンダを設立しました。

ベルギーに工場建設が決まった時に本田が決断したことがありました。

ベルギーに工場を建てるのは、ベルギーの金を日本に持ってくるためだろうか。そんなケチな了見ではベルギーの人たちに嫌われ海外企業は成功しない。現地の工場を建てたからにはまずその土地の人を富ます方法を考えねばならぬ。

ベルギーは当時アフリカに対して権益を持っていたため、重要な拠点でありました。

将来、アフリカへの進出を考えていた本田はその場所での金儲けではなく、現地の人を最優先に考えてのことでした。

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集団思考の重役室

本田技研工業が急成長を続けて行く中、次なる課題は官僚制でした。

組織が大きくなるにつれて、各部門のトップは現場の仕事だけでなく、人事を決めたり、稟議に目を通したり、ハンコを押す書類が増えたりと雑務に追われてしまいます。

ここで社内の改革を任されていた藤澤武夫はある戦略を立てました。

重役になるくらいの人はなにかのエキスパートです。そういう人の担当部門をなくし、部下を管理する煩わしさから離れてもらって、一人だけの力で一部屋の役員室に集まってもらう。中略…重役になるくらいの人は担当者が気づかないことも見つける力を持っているものです。

つまり、部門長の発想から離れて、大所高所から会社を見直してもらう。

そして、幹部間の意見交換を活発にし、意思決定を早める目的がありました。

これには、本田と藤澤が7年かけて議論し尽くし、本田技研工業の企業理念を作った経緯があります。

企業が大きくなるにつれて、部門間の軋轢がその企業の成長の妨げになることを事前にふせごうという試みでした。

いかがでしたでしょうか。

本田、藤澤亡き今も本田技研工業がその地位を不動のものにしているのは彼ら思考が今でも脈々と受け継がれ、現在でも浸透していること。

さらに、本田、藤澤は自分たちに依存しない経営スタイルを貫き、未来を見据え、家族経営を断固反対したことにも起因しているかもしれません。

以上、ポメでした!!

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