坐禅に学ぶ!-前編-

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坐禅と聞いて何を思い浮かべますか。

それは修行?

仏教?

坊主?

宗教?

足がしびれる?

その程度の知識しか持っていなかった私が友人と坐禅をしに行こうと思いました。

最近、流行っているみたいですね。

私も聞いたことがあります。

あのスティーブ・ジョブズが坐禅をしている、と。

その前に何か基礎知識を得てみよう。

こんな本に出会いました。

禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書)

この坐禅の考え方は全てに通づるところがある。

素直にそう思ったので、その一部をまとめてみました。

目からウロコ過ぎたので2部作です。笑

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坐禅に学ぶ!-前編-

1. 自分の身体を自分のものにする

正しい姿勢である時、心は既に正しい状態にあります。
それ以外なにか特別な状態を得ようとする必要はありません。
得ようとしないとき、身体も心もいま、ここにあります。

修行、つまり坐禅を行うにあたり、ジョブズのようになりたいとか、心を成長させたいとか、そういった考えは雑念でしかないようです。

目の前の修行に集中します。それが大切なことです。

2. ただ坐禅を続ける

色は色であり、空は空である。

いくらそれを考えても何も変わりません。

どんな苦難が生じたところでそれには理由なんてありません。

常に色は色であり、空は空なのですから。

細かいことを考える必要はありません。

修行を続ける目的は修行を続けることなのですから。

3. 特別なことは何もない

「霧雨で有名な廬山、廬山は潮流で有名な浙江に行って、帰って来た。なにも特別なものはなかった。」

恋憧れたものが目の前についにある。

しかし、それが手に入った後では「こんなものか。」と、人は思ってしまいます。

坐禅も同じです。

単純な修行を続けると驚くべき力が手に入ります。

しかし、手に入った後では特別なものだとは思いません。

つまり、何かを得るために行うべきではないのです。

4. 修行に縛られる

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先入観や固定観念に捉われるのは、あなたの修行が純粋ではないからです。
純粋とはありのまま、そのままという意味です。

坐禅をすることで何かが得られると考えるとするとそれは不純な修行になっています。

なにか特定のものを見ようとしないこと、特別なことを達成しようとしないことです。

5. 執着と非執着

坐禅と日常の活動はおなじことです。

「坐禅が終わった。さあ、毎日の仕事をしよう。」これは間違っています。

坐禅は日常活動の中にあるべきなのです。

総じて

なぜ同じことをクドクドというのかと思われるかもしれません。

それだけ、何かを継続し続けることは努力が必要で難しいことなのです。

それに私利私欲が絡んでいると欲している結果は、得られません。

何事もまずは無心に継続する努力をしてみようではありませんか。

例えば、早起きを1年継続する。

何も変わらなかったと思い止めてしまう人もいるかもしれません。

しかし、気づいていないだけで劇的な変化を遂げています。

それで、何も変わらなかったと継続を止めてしまうことは実にもったいないことです。

そのため、まずは何か形や実力になるものも得ようとせずに、継続する努力をしてみましょう。

次回は、より具体的に私生活にいかせる禅の知恵をまとめてみます。

ポメでした。

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